感情の闘争

人が社会や、政治的なことについて語るとき、多くの人は自分の「感情」をそもそもの動機としていて、「理屈」は後から来るものじゃないでしょうか?
 例えば「嫌韓」と呼ばれる言説を支えているのは、そのような感情であると私は考えていて、問題は韓国の歴史認識や日本の歴史認識とかじゃなくて、むしろこの感情の戦いにこそある。
 「嫌韓」等とされている言説の数々、それらがある一定層の人に受容され、また広められるのは、例えばTVなどで映し出される韓国における反日感情の発露―日の丸を燃やす、時の首相の人形を燃やす等―によってちょっと「むかっとした」という、日常的で些細な感情によっているでしょう。
 また別の例を言えば、「高齢者は医療費を自己負担しろ」等の言説は、病院を「喫茶店」代わりに使う高齢者が許せない(「自分の納めた税金がそんな事に使われているのか!」)、等の日常における経験からくる感情に基づいているように思えます。
 ネット上の言説は、そういった感情を正当化させ、理屈を後付けするのに大変むいています。何故ならそれは「断片」でいいのだから。掲示板でもなんでもいいですが、日常の、いわば断片としての経験、そこから派生した感情に対して、同じように断片的に「共感」し、その感情を正当化する、そうした形式のメディア、つまり「ネット」こそが実は一番感情を補足するのには向いている。
 では、そもそも人間が感情を逃れ、理性的にのみ行動することは可能でしょうか?十七世紀オランダの哲学者、スピノザは「国家論」において次のように語っています。

 「すなわち、人間は必然的に感情に従属する。また人間の性情は、不幸な者を憐れみ、幸福なものをねたむようにできており、同情よりは復讐に傾くようになっている。さらに各人は、他の人々が彼の意向に従って生活し、彼の是認するものを是認し、彼の排斥する者を排斥することを欲求する(岩波文庫、14頁)」

 続いて、宗教はこれを補完するような教説をもっているが、現実の場面ではほとんど効果がない、とも書いています。
 では、理性のみで行動する、ということはどうか。これは人間にはあまりにも厳しい道であり、政治家にそんな事を要求するのは「空想物語を夢見ている」のと等しいと。つまり、「清く正しい人」など要求するのはそもそも無理があるので

、「背信的であったり邪悪な行動をしたりすることができないような国事が整えられていなくてはならない(岩波文庫、16頁)」

 ちょっと話が個人の言説から国家にいっちゃった感はありますが、とても「現実的」ではありますよね。人間など信頼せず、国家を運営するときの「制度」が信頼できるものであればいい、ということなのですから。これは未だに議論されうる考え方だと思います。
 で、私は結局なにが言いたかったのか、よくわからなくなってきましたが、どの道、言説において感情からは逃げられない。だけど、自覚すれば少しは多角的な視点がもてるんじゃないの、というだけの話です。
 例えば、私も日の丸が燃やされたときはちょっと「むかっとした」のは事実です(その映像の詳細については調べていないので、映像についても検証の余地があると考えますが)。だけど一回その感情を突き放す必要がある。
 何故突き放さなければならないのか?ここがまさに政治的なポイントです。今の社会は、負の感情によって人を強く束縛するような構造がある。負の感情の連鎖と、それによってお互いに分断される諸々の集団がある。実は日常の微細な負の感情―苛立ち、ねたみ、自己嫌悪、蔑視等が循環して形成される感情のエコノミーこそが問題です。
 そしてそうした感情を吸い上げて成立するようなタイプの「言説」がある。そこに対して警戒しなければ実は何も考えたことにはならない。