ハル・フォスター編「視覚論」メモⅠ


ハル・フォスター編「視覚論」(榑沼範久訳、平凡社)のメモ。
読んだのは平凡社ライブラリーのほうではなく、ハードカバー版。おそらくこっちは共同討議の部分が少しカットされている?

原題はVision and Visualityで、視覚をvision、視覚性をvisuarityと訳しているようです。
共通している論点はいわゆるポストモダニズムの観点から、モダンの批判的再考、主体や確固とした客体=対象なしに、どのように視覚を思考して行くか、と言ったところでしょうか。極めて刺激的で、著者五人のそれぞれの仕事の、わかりやすい要約にもなっています。
(下の要約は私なりのまとめに過ぎないので、もしかしたら解釈を間違えている箇所もあるかもしれません。ご指摘頂ければ、幸いです)


1 マーティン・ジェイ『近代性における複数の「視の制度」』

近代西洋は視覚的な文化が中心であった。しかしそれは一つではなく複数の制度があったのではないか。ここでは三つ理念形を取り出す。
1デカルト的遠近法主
ルネサンスの遠近法=デカルトの主観的合理性。遠近法は単眼のみの視点で外的現実に対応する。確固とした視点から、消失点に向かって世界を配置していく形式。デカルトにおいて世界は主体の思考の対象であり、見る―見られる関係は固定されたまま主体が時間的な制約を越えて特権的なものとして扱われている。
2描写術
オランダ美術。確固とした視点から世界を眺めるというよりも、物や人が等価に扱われる。世界の断片性が描かれる。地図との共通点。地図は見るものの位置が定めらていない。「情報が処理された平らな表面なのである」写真の先駆的存在。
3バロック
ヴェルフリンの「ルネサンスバロック」論が紹介される。バロックは描かれた現実の不透明性・判読不可能性に魅了される。ルネサンス的な鏡ではなくゆがんだ鏡として、むしろ普通の鏡像が鏡によって可能になるイメージに過ぎないということを明かす。表象不可能なものを表象しようとする欲望=肉体の表現。「見ることの狂気」

結論
シュルレアリスムに見られるようにバロックがいまや優勢である。しかしこの三つの制度を一つを悪者にするよりも利点マイナス面を考えつつ共存させたほうがいいんじゃね?そもそも真の視覚なんて無いんだし。(ハーバーマス的結論)

2 ジョナサン・クレーリー「近代化する視覚」
視覚文化の連続性ではなく、非連続性を強調する。具体的には写真における言説のあり方。写真が、西洋の美術の技術的、イデオロギー的な発展であるという見方に切断を持ち込む。
カメラオブスクーラは観察者の思考する精神=内部空間と比喩的に対応させられていた。外部の世界と内部の表象の一致を保障するもの。人間の目は信用できないが、カメラオブスクーラが光を世界像として投影するのは客観的であるということ。
十九世紀以後、しかしそのモデルは成立しない。世界と私の間に身体が存在するようになった。ターナーゲーテ。この身体は様々な視覚的経験を生み出す。具体的な身体の研究として生理学が興る。知は身体によって条件づけられている。
ヨハネス・ミュラーによる感覚の研究。同じ原因(電流)であっても、たどる神経によって異なる感覚を起こす。同じ電流でも肌は触覚、視神経は視覚。その逆もある。つまり、感覚と刺激は現実に対応しているのではなく恣意的である。
光を見るといったとき、圧力や充血、電気によっても光は見える。
現実そのものの新たな構成。

知覚するものは導管であり、そこで交換されるものはエネルギーでも情報でも資本でもいい。
十九世紀に発生したこの技術的観点から、むしろ二十世紀において「身体」を通したフーコーの「個人についてのテクノロジー」と呼ぶ支配形態が可能になった。むしろ写真や映画、映像産業とスペクタクルはその様な身体を対象としている。


3 ロザリンド・クラウス「見る衝動/見させるパルス」
モダニズムの視覚性の否定として、ビート、リズム、パルスという概念を提示する。瞬間的=無時間的な知覚ではなく、「時間性」のある形象。それはハイカルチャーサブカルチャーの区別すら溶解させる。エルンストの百頭女におけるコラージュ。ズートロープの「中にいる」少女。映画の前段階と言われているが、しかし本質的に異なる点は、それがそのイリュージョンを発生させる仕掛け事態を隠していない点にある。イリュージョンを経験させることと、その経験を外側から見るという主体の二重化。
これは夢の経験でもある。夢では夢を見ている私と、その私を外から見る私の二重化がある。
で、ズートロープはスリットがあるのでリズムがあり、それによって動いているように見える。内側から見たらそれは断片的でしかない。しかし内と外を結び付けているのがリズムである。
デュシャンの「光学装置」では、見るものの欲望の対象は作り出されると同時に失われる。
ジャコメッティの「吊るされた球」では、性行為を思わせるが男性と女性の性差は判然としない。決定不可能なままそれらを往復し続ける。
こうした時間性はむしろ視覚の構造に内在しているのではないか。
リオタールの「ディスクール、フィギール」の引用。マトリクスについて。マトリクスは無意識であり不可視な一時過程である。マトリクスは意味的な体系、対立がなくすべてがブロックとして並置される。
「子どもが叩かれる」というフロイトのエピソード。「子どもが叩かれる」―「父が子どもを叩く」―「私は父に叩かれる」の変形。「子どもが叩かれる」という文は様々な意味の圧縮によっている。能動受動、SからM、父になりたい―父を所有したい。
主体は反復するビートという「形式」によって構成されている。無意識は意味ではなくリズムに捉われている。その欲望は反復される断絶と循環の、死の欲動である。
ピカソの後期のヴァリエーションについて。スケッチブックでぱらぱら漫画のようにして描かれている。アニメと芸術の区別が危うくなる。
更にそのエロスな表現はむしろそうした規則性、反復性によっていた。ピカソを支配していたのは想像の能動ではなくそうした受動性である。
ここでいうビート、リズムは時間的なものではない。形象として確定した意味の無いまま重なり合い圧縮されているもの。討議で触れているようにリオタールは空間におけるビート、建築の柱等を考えていた。



続きは明日に。